概要
下北半島の北部を縦断する国鉄線の一部。1921年9月25日に半島南部の野辺地~大湊間が大湊軽便線(現・大湊線)として全通。翌年の1922年4月11日にいわゆる「改正鉄道敷設法」が公布され、「青森県田名部ヨリ大畑ヲ経テ大間ニ至ル鉄道」が予定線に編入された。
これを契機に予定線の沿線自治体による鉄道建設運動が始まり、大間地区の要塞施設整備の一環としても大間線の建設が考えられるようになる。ただ、改正鉄道敷設法の制定から数年後には国鉄線としての着工が決まったものの予算化が見送られており、そのせいか1928年には東京の民間資本による大間鉄道の敷設が計画され、同年7月に田名部町~大畑村~大奥村大間間の免許が申請された。
当時の鉄道省は大畑以南を国鉄線として建設する意向を持っていたため、大間鉄道に対しては1928年12月20日に大畑以北の区間のみ免許したが、このころ大畑以南の国鉄線建設費の予算化が再び見送られたため、1929年5月20日には田名部町~大畑村間も免許されている。しかし、昭和初期の恐慌の影響で着工には至らず、大間鉄道は1932年9月28日に起業を廃止。結局は全線を国鉄線として建設することになり、1937年6月に第1期線として下北~大畑間が着工し、1939年12月6日に大畑線として開業した。
大畑以北は大畑~桑畑間が第2期線とされて1938年から工事に着手。まず大畑~釣屋浜間が1940年8月に竣工し、1941年には釣屋浜~木野部間が8月までに、下風呂~桑畑間が10月までにそれぞれ完成した。しかし、太平洋戦争の戦況悪化から工事予算が削減され、木野部~下風呂間の工事が進められていた1943年12月に工事中止が決定する。
戦後も沿線住民による工事再開運動が起こり、一時は青函トンネルの東ルート案に接続する鉄道として大間線を活用することも考えられたこともあったが、青函トンネルが西ルートで建設されることが決まったことから頓挫。国鉄線の建設を担当する特殊法人として1964年3月に発足した日本鉄道建設公団は大間線の施設を引き継がず、さらに路盤の一部を国道に転用することになり、大間線の計画は事実上消滅した。
開業区間の大畑線下北~大畑間も日本国有鉄道経営再建特別措置法に基づき廃止対象路線に選定され、1985年7月1日に地元バス会社の下北交通が経営を引き継いだが、結局は輸送人員の減少から2001年4月1日に廃止されている。
データ
線名 | 大間線 |
営業 | 日本国有鉄道 |
建設 | 日本国有鉄道 |
区間・駅 | 大畑~釣屋浜~木野部~赤川~下風呂~桑畑~易国間~蛇浦~大間~奥戸 |
距離 | 約25km |
軌間 | 1067mm |
電化方式 | 非電化 |
単線・複線 | 単線 |
種別 |
手続き年表
1922年4月11日 | 予定線 |