概要
大阪市から四国を経て九州の大分市に至る新幹線鉄道の建設線。本州~淡路島間(明石海峡または紀淡海峡)と四国~九州間(豊予海峡)は新幹線単独の海底トンネルで通り抜けることが想定されており、淡路島~四国間(鳴門海峡)は道路・鉄道併用橋として整備された大鳴門橋を通ることが事実上決定している。四国内は高徳線と予讃線にほぼ並行する線形になるとみられる。
本州から淡路島、四国を経由して九州に至る鉄道は戦前から構想されており、1939年11月に鉄道大臣に就任した永田秀次郎は、北九州地域の石炭を大阪の工業地帯に送るため、明石、鳴門、豊予の各海峡に鉄道トンネルを整備することを提唱している。終戦直後の1948年には大阪鉄道局と四国鉄道局が「永田構想」の再検討を行っているが、工事費がかかりすぎるという理由で見送っている。
その後、国土総合開発法の制定などを機に本四連絡鉄道を整備しようという気運が高まり、1953年8月には、いわゆる改正鉄道敷設法に基づく予定線として本四淡路線の須磨~岩屋間(明石海峡)と福良~鳴門間(鳴門海峡)が追加された。日本国有鉄道(国鉄)はこれを受けて1955年4月から同線の調査を開始。1961年5月12日には本四淡路線が調査線に格上げされている。ちなみに、淡路島内の岩屋~洲本~福良間は1922年に改正鉄道敷設法が制定された当初から予定線となっており、このうち洲本~福良間は淡路鉄道(のちの淡路交通)が1922年から1925年にかけて開業しているが、1966年10月1日に廃止となっている。
国鉄の調査は鉄道単独のトンネルもしくは橋梁を想定したものであったが、1959年4月から建設省が本四連絡道路橋の調査を開始し、さらに1960年8月11日には鉄道建設審議会が「国鉄と建設省が協力して調査を実施するのが適当」と建議したことから、国鉄は1960年度から調査の目標を道路・鉄道併用橋に変更。1961年8月には国鉄と建設省が共同で土木学会に調査を委託している。
本四淡路線の調査は1964年3月に発足した日本鉄道建設公団(鉄道公団、現在の鉄道建設・運輸施設整備支援機構)に引き継がれ、同年4月の基本計画指示で鉄道公団の調査線に編入された。しかし、本四間の連絡施設は道路と鉄道の併用となることが想定され、さらに本四間という限定された地域の大規模事業を全国的組織である鉄道公団が行うのは適切でないなどとされたことから、本四架橋の建設事業に限定した公団を設立することになり、1970年7月1日に本州四国連絡橋公団(本四公団)が発足。同年12月3日に鉄道公団の基本計画から本四淡路線が削除され、同時に本四公団に対しては、神戸市須磨区~鳴門市(のちに神戸市垂水区~鳴門市に変更)の神戸・鳴門ルートについて、調査の基本計画が建設大臣と運輸大臣から指示された。
本四公団は1971年3月16日に調査の工事実施計画を申請し、同月24日の認可を受けて調査を開始するが、新全国総合開発計画の策定(1969年)や全国新幹線鉄道整備法(全幹法)の制定(1970年)によって、本州~四国~九州間を連絡する新幹線鉄道を整備しようという気運が高まっていたことから、1973年9月21日に指示された工事の基本計画では本四淡路線を新幹線規格複線とし、同年10月26日には明石海峡大橋と大鳴門橋を含む道路との共用部7.7kmについて、新幹線規格複線の工事実施計画が認可された。さらに翌月の15日には四国新幹線も全幹法に基づく基本計画が決定され、本四淡路線は事実上、四国新幹線の一部として建設されることになった。
当初は1973年11月25日に神戸・鳴門ルートの起工式が実施される予定だったが、石油ショックに伴う総需要抑制策によって着工が延期され、1975年8月18日には、当面の建設方針として本四連絡ルートを岡山県倉敷市~香川県坂出市の児島・坂出ルート1本に絞り、本四淡路線を含む神戸・鳴門ルートは大鳴門橋のみ建設することが決められた。
大鳴門橋は1976年7月2日に起工式が実施されて工事に着手したが、このころ国鉄の経営悪化が深刻化しており、さらに四国新幹線の建設が具体化しておらず大鳴門橋の鉄道施設も長期に渡って利用できない見通しとなっていたことから、運輸省は大鳴門橋を1個列車分のみ走行可能な単線載可方式に変更して鉄道分の負担を軽減することを提案。1980年3月31日に大鳴門橋の鉄道載荷条件を単線分とする工事実施計画の変更が認可されている。
一方、明石海峡大橋についても、国鉄の経営悪化や社会情勢の変化などから道路単独橋として整備する方針に転換。1981年6月には本四公団に対して道路単独橋への変更可能性についての調査が指示され、1985年8月の運輸省、建設省、国土庁の協議で道路単独橋とすることが正式に決定。1987年9月28日に鉄道分を削除した工事実施計画変更が認可されている。このため、四国新幹線は鉄道単独の海底トンネルで明石海峡もしくは紀淡海峡を通過することが考えられるようになり、1983年12月に本州~淡路島間の海底トンネル部の調査が全幹法に基づき鉄道公団に指示された。
明石海峡は国鉄や建設省、本四公団により行われた調査の資料収集や整理を行うとともに補足調査を実施し、紀淡海峡は1984年1月からボーリング等による地形地質調査が進められている。しかし、国土交通省は大型公共事業に批判的な世論の高まりを受けて、2008年度予算に計上されていた四国新幹線の調査費を執行しない方針を2008年5月に固めており、このまま調査が打ち切られる可能性が高まっている。
なお、豊予海峡は1974年7月に四国新幹線の海底トンネル部として鉄道公団が調査指示を受けており、1982年までボーリング調査などを実施。青函トンネル工事の経験を踏まえれば技術的には可能などとした調査結果を1988年12月に提出している。この調査で想定されたルート(1975年時点)は、愛媛県瀬戸町(現在の伊方町)から佐多岬、関崎を経て大分市に至る約57kmで、四国側陸上部が約21km、海底部が約14km、九州方陸上部が約22km。トンネル内の勾配は陸上部が12‰、海底部が3‰とされていた。
データ
線名 | 四国新幹線 |
営業主体 | ※未定 |
建設主体 | ※未定 |
区間・駅 | 大阪市~徳島市付近~高松市付近~松山市付近~大分市 ※詳細なルートは未定 |
距離 | 約480km |
軌間 | ※未定 |
動力 | ※未定 |
単線・複線 | ※未定 |
開業予定時期 | ※未定 |
備考 |
進ちょく状況
1973年11月15日 | 基本計画決定 |